もう何年も前の話になりますが、近所に新しいテーラーができたとき、試しにと思い一着スーツを作りに行きました。最初からフルオーダーというつもりもなかったため、採寸の後はゲージ服を試着。すると、それがあまりにもピッタリとはまってしまい、どこを何度測っても、ほとんど調整する箇所がありません。あまりにも標準的な体型だったんですね。お店の人はつまらなかったと思います。(ちなみに、「標準的な体型」と「理想的な体型」はまったく違う場合が多いはずです。私はその後かなり身体を絞って健康を意識した体型に変えましたが、その後はどんなゲージ服もしっくりこなくなり、採寸の数字は完全に「自分だけのもの」になりました。)

いずれにせよ、そのテーラーは手頃な価格でしっかりした品物を作る、なかなか良い店でした。家から近いこともあって、今でもほぼすべてのスーツをそこでお願いしています。
しかし、ふと思ったのですが、気に入った店だからといって、このままこの店でスーツを作り続けていいのでしょうか。それとも、より良い店がないか、常に探し続けるほうがいいのでしょうか。同じものを選び続けるのは確かに楽で、大きな失敗をするリスクもありませんが、度が過ぎると生活を型にはめてしまうことになるかもしれません。
例えば、消耗品をずっと同じ製品で過ごしているようなことはありませんか?私は5年くらい同じシェービングクリームしか使っておらず、つい最近、日本でその製品が非常に手に入りづらくなったのでようやく違う製品を試すことになりました。他にも、靴下は「パンセレラ」、デンタルフロスは「GUMのふくらむタイプ」と、ほとんど決めてしまっています。デオドラントなんて、たぶん10年以上同じものしか買っていません。こういうものは、変えてみたところで、たぶん最初の数週間から数か月の「なんとなくしっくりこない期間」さえやりすごせば、特にどうってことはないんだろうと思います。変えないという選択を続けることで、ひょっとしたら、他にあるかもしれない素晴らしいものを経験するチャンスを逃している可能性もあります。
さて、ここで唐突にチェスの話です。チェスの世界には、実に様々な対局スタイルを持ったプレーヤーがいます。1960年に世界チャンピオンとなったミハイル・タリは、非常に攻撃的なスタイルが特徴的で、時に驚くようなサクリファイスを繰り出すこともあったため、「マジシャン」とも呼ばれました。その数年後に同じく世界を征したチグラン・ペトロシアンは、非常に防御が固く、「Iron Tigran」とあだ名されました。
ちょうどこの二人のように、攻撃的なプレースタイルの人と守備的なプレースタイルの人がいるとしましょう。しかし、両者ともある程度以上のレベルのプレーヤーだとすると、明らかに攻めたほうがいい場面ではどちらも攻めるはず。そして、どうみても防御に力を入れなければいけない場面ではどちらも守るはずです。では、どこでスタイルに差が出てくるのか。それは、難しい局面で、有力な手が一つに絞れないときに、どういった手を選択する傾向があるかで決まります。
しかしながら、いくつかの候補手があって、そのどれもが完全に同じ有力さであるということは、そうそう起こり得ません。ごくごくわずかの差であっても、仮にどんな人間の能力でも判断できないぐらいの違いであっても、そのときどきのベストの手というのは、ほとんどの場合は一つに決まるはず。それがいつも同じ傾向の手だというのは考えづらい。ということは、常に最善の手を指し続けるプレーヤーがいたとしたら、「スタイル」は見えなくなってしまうのではないかと思います。(コンピュータチェス、コンピュータ将棋等の世界では、既にこうしたことが起こっています。しかし、まだまだ「コンピュータらしい」と思わせるような場面に遭遇することもあります。)
何事においても、自分のスタイルを確立し、自分にしかない特徴を全面に出すことが大切だと主張する人もいます。一方で、自分を型にはめるなという人もいます。「Think out of box」なんていう表現もありますよね。単に型破りなことをするということではなく、かといって平凡に済ますということでもなく、ただただその場その場における「最善手」を真剣に追及するということも、時には必要なのかもしれません。疲れるけど。
